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米と日本人 3000年にわたりその時代ごとに役割

8割が主食と考える

わずか半世紀前まで米食悲願民族とまでいわれ、茶碗についた米を1粒残すだけでもとがめられるほど米の飯に飢えていたのに、いまや1日に茶碗1杯の米飯さえ食べなくなっている日本人。それでいて、主食は何かト聞かれると8割もの国民が「米」とみなす今の日本社会。どういうことだろうか。

この問いに答えるには米や稲作の歴史を俯瞰して見るしかない。米食と稲作の変化からは、日本史を六つの時代に区分するのがよいように思われる。

 

最初の時代は、米や稲作の影響がほとんどなかった時代で、弥生時代の中頃までの時期に相当する。

第2が、米が国家を作りその国家が稲作を強力に推進した時代であった。この時代、米は軍事物資でもあった。

第3の時代は奈良時代頃に始まった。稲作は民営化し、有力な貴族や武士が米作りで力をつけていった。時代の後半、中世は厄災の時代であるとともに現代の米食や稲作の文化の原型が形づくられた。そして戦国の時代は米が軍事物資として主役に座った時代でもあった。

第4の時代である江戸時代に入ると、米本位体制がとられ、米は貨幣の役割を担った。

都市では米食文化が花開き、江戸市民は庶民を含め、現代東京人の5倍の1日750㌘もの米を食べていたという。茶の湯とともに花開いた和菓子の文化は米に支えられたが、同時にそれは日本人の美意識の結晶でもあった。同時にこの時代は、高い民度に支えられた水田の造営技術が花咲き、水田生態系が完成をみた時代でもあった。

 

戦後、単なる食料に

第5の時代、明治時代に入ると、米は再び軍事物資となる。「富国」とは米の増産を意味した。「亀ノ尾」「旭」など時代を画する品種が続々登場したが、それらの生みの親は立派な顕彰碑の建立をもってその栄誉をたたえられたのである。水利や農地の拡大に、文字通り命がけで挑んだ社会や個人が相次いだ。稲作農家が一粒でも多く米をとろうと、地道な努力を続けたのもこの時代だ。

このように俯瞰してみると、米と稲作は3000年にわたり、さまざまな意味で日本人と日本社会をつくる社会的な立場を与えられてきたことが改めて理解出来る。

いつの時代にも、その時代ならではの役割を与えられてきた米食と稲作は、1945年の終戦を契機に、そのあらゆる役割を一挙に失った。米は単なる食料と化したのだ。加えて1960年代中頃からは米余りの時代となり、一人当たり年間消費量は半世紀の間に半減した。休耕田が増え、里地は荒れ、そこに野生動物が入り込んできた。農業の衰退である。里地の衰退は、陸域から海へのミネラルの供給を細め、里海を痩せさせる。現代の構造的不漁は、一面では、人間活動の結果でもある。米に代わり小麦の消費が増え、中食、外食の浸透で食の外部化が進んだ。これが第6の時代、つまり現代である。