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諸国鰹節

日本最古の書物・古事記の中に堅魚という名前が登場します。また養老律例(718)に煮堅魚・堅魚煎汁とあり、これが今日の鰹節の原形で、煎汁は日本古来の調味料とされています。これらは長い年月をかけて進化してきました。

室町時代に、干し鰹にばい乾の技術が取り入れられ、鰹節ができました。始めのばい乾技術は囲炉裏の上に用意された平かごに、おろした鰹を入れ、炊事する熱と煙により勝手にばい乾されるだけでした。

江戸時代、土佐(高知県)や紀州和歌山県)から大阪へ船で鰹節を運ぶ際に、湿気でカビが発生する問題がありました。

燻乾加工は紀州出身の角屋甚太郎という漁民が延宝2年(1674)に土佐で最初に実施したと伝えられています。

改良土佐節は燻乾法を土佐に伝えた甚太郎の故郷に教えた以外は土佐藩の秘伝とされました。しかし、宝永年間(1704~7111)には紀州の森弥兵衛によって枕崎に製法が伝えられ、さらに土佐与市によって天明年間(1781~1789)に熊野や安房享保元年(1801)に伊豆へ製法が広まりました。これにより、土佐節・薩摩節・伊豆節が三代名産品と呼ばれるようになります。江戸期には国内での海運が盛んになり、九州や四国などの鰹節も江戸まで運ばれるようになり、土佐の清水節、薩摩の屋久島節などを大関とする鰹節の番付表が作成されました。

その後、更なるカビ利用による進歩があり、鰹枯節と呼ばれる元となった燻乾カビ付け法を考え、前もってカビを発生させることで長期保管が可能になり、全国へ広まりました。カビはばい乾したカツオの身の内部に菌糸を張り巡らして水分を吸い上げるとともに、強力な分解酵素で旨み豊かな各種アミノ酸を生み出し、生臭い成分を分解して消していきます。「鰹節」(宮下 章 上・下巻)によると、江戸の鰹節職人の工夫による卓越した発酵技術によって作られたとされています。田子の職人はこれを難なくこなし、先進地・土佐の鰹節とは違った独特の伊豆節を生み出しました。

明治初年(1868)において、3番カビ付けを完成品とする「本節」が誕生した瞬間です。土佐式が納屋の中に裸節を蔵置きし、悪性のカビの発生を防止する目的で1回のカビ付けを行なったのに対して、伊豆では悪性のカビの発生防止だけでなく、さらに、鰹節の味を良くするためにカビをつけていました。3回のカビ付けを徹底して行う事により、伊豆節は天下の名産品に仲間入りしました。その後、明治40年代には4~6番カビ付けの本枯節が出現して伊豆節が完成し、全国的に大変高い評価を受けるようになりました。

カビ付け方法の足跡の年代設定は、諸説があり明確ではありません。明治33年に著された「静岡賀茂田子鰹製造法」には4番カビ付け以降の記述もあり、明治40年代より前に本枯節が造られていたとも考えられます。伊豆節は、駿河湾の対岸に位置する焼津に伝えられ、焼津節として発展します。

鰹節に付けているカビの種類は味噌、酒、醤油に使う麹菌の仲間ユーロティウム(和名:カワキコウジカビ、あるいはカツオブシコウジカビ)というカビ毒を産出しない優良カビです。

鰹節はカビで旨く、堅く、長持ちさせる逸品です。