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託された「命のバトン」 3

死と向き合う力

ベッドの上で亡くなられる方のほとんどが、「生きたように死ぬ」ということです。最期まで、「生」を全うされた方は、本当に晴れやかなお顔で旅立たれます。いつも笑顔を絶やさない方は、ほぼそのままのお顔で亡くなられます。そして、亡くなられたのに、まるで生きているように感じさせる方々には、共通点があります。それは生前、自分のことより他人の幸せを優先して考え、常に周囲に対して感謝の心で接しておられた方々であるという点です。まさに、生命が本然的に持つ利他の生き方を貫いてきた結果であると、思えます。もちろん、人によって状況も違うので、大切な人、身近な人の臨終に立ち会えないこともあるでしょう。しかし、私たちは、こうした亡くなられた方々の生きてきた姿、そして死んでいく姿を通し、自らの生きるべき道を確かめ、死と向き合う力を得ていくのだと思います。とは言っても、悲哀や切なさといった感情を持つ私たちには、周囲の死を容易に受け入れられるものではありません。しかし、私たちが決して忘れてならないのは、そうした方々が命がけで受け継いできた「命のバトン」があったから、今の自分たちがいるという事実です。そしてまた、その「命のバトン」とは「利他のバトン」であるということです。だからこそ、残された人たちが、亡くなった方々の分まで、周囲の為に尽くし、そのバトンを、さらに次の世代に託していこうとする心が重要だと考えます。

 

確かな生死の哲学

そうした生き方を貫いていくためにも、哲学や宗教が不可欠です。一般的に、多くの人は、「死」に対して、次のような二つの考えを持っています。

一つ目は、死ねば心身ともに一切が滅びるという考え。つまり、生命を「現在世だけのもの」とする考えです。

二つ目は、死んでも肉体とは別の霊魂のようなもので、それが続くという考えです。

しかし、一つ目の考えでは死への恐れを助長するだけで、「今さえよければいい」という刹那的な生き方や「どうなってもいい」という自暴自棄の生き方につながっていく可能性があります。そして二つ目も、死を受け入れることはできず、かえって今の自分への執着を増し、迷いを深めるだけに終わってしまう恐れがあります。

一方、仏法では、「三世の生命」「三世の因果」を説いています。生命の因果は現在世だけのものではなく、過去世・現在世・未来世の三世にわたるもので、過去世の行為が因となって現在世の結果として現れ、現在世の行為が因となって未来世の結果をもたらすという思想です。すなわち、生と死は断絶したものではなく、永遠に生と死を繰り返していくという生命観です。この思想は、旅立つ側、見送る側の双方に力を与えるものだと思います。旅立つ側にとってみれば、現在世の終わり方が未来世の始まりを決めるという意味で、最期まで「生」を全うすることができます。見送る側にとってみれば、亡くなられた人の「死」は敗北でも悲劇でもなく、次ぐなる「生」へのみずみずしい出発であると思うことができます。まさに仏法は、「生」を最も価値的にする道を指し示すと同時に、「死」の苦しみを乗り越えるためのよりどころとなる希望の哲理ではないでしょうか。もちろん、この世に生きている人にとって、死は誰も経験したことがありません。人は「死」と向き合うことで、自らの命の有限性に気づかされます。しかし、その限りある人生を意識するからこそ、「今」を大切にすることができます。