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太陽の道 2

伊勢斎宮の東岸、宮川の川口から真東を望むと扁平な答志島と、はるかに伊良湖岬の間に鋭くとがった神島をみることができる。神島からさらに東へ、渥美半島沖から遠州灘を通り御前崎をかすめて進むと伊豆半島の先端に至る。ここに加茂郷がある。やや北に振ると房総半島の南端に鴨川町、その背後にまたしても加茂郷がある。この鴨川町の附近には「旭の森」という山があり、古くは「嵩ケ森」とも呼ばれていた。ここには建長5年(1260)の春分に近い旧4月28日早暁、山頂に立って太平洋から登る太陽に向かって合掌し、「南無妙法蓮華経」の題目を始めて唱えた日蓮の姿があった。だが日蓮はお題目の第一声を挙げる地としてどうしてここを選んだのか。本来仏教には朝日を拝むという思想はない。浄土教に説く日想感も主として夕陽の美しい光景を示すもので、旭日を拝する思想は常世の信仰につながるもの、つまり日本的思想である。日蓮はその名の示すごとく、こうした日本的思想の上に仏教理念を重ね合わせることによって、さらに広い布教を試みたのではあるまいか。ここに日本的仏教の一端を見ることができると同時に、日蓮がその聖地として旭の森を選んだ理由の背後には、はるかな昔、常世の国を求めて移り住んだ人々の、尚さらに東へと求める願いが籠められているように思われる。

次に夕日を追って西に進んでみると、二上山・伊勢の森と鎮魂の山に続いて、小豆島、次いで岡山附近に上陸し、さらに西に進むと、大和ーーー鴨川間とほぼ等距離約500キロで日本海に入るが、その海岸に山口県須佐町がある。夕日を見る古代人は、その彼方に国を思い、やがて東から太陽と共に再来するであろう事を祈って、西海はるかにも、常世に通じる道を見ていたことでしょう。日本人の精神生活の原点において、空気のように取り巻いている東方指向性こそ、万象の中の原理として支配している太陽の道に基づくものだ、といえるのではないでしょうか。

大和を中心に東西千キロに及ぶ太陽路線とは、すばらしく雄大なロマンではないでしょうか。

  倭は 国のまほろば たたなづく青垣

    山隠れる 倭しうるわし

大和は国の中心、神と人との共に造り住む理想郷、と詠むこの歌に太陽路線を重ね合わせて思うとき、古代人の大和に対する敬愛の念が彷彿とする思いである。

太陽の道の設定には、太陽の出没を観測することによって決定したのではないだろうか。だが太陽は、北緯34.5度に当たる太陽の道の線上では、南北に約60度の振幅を持っている。では一体古代人はどんな方法で、太陽による東西線を決定したのか。こんな想いをはせながら太陽の道を歩いてみたいと願っている。