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浅見光彦シリーズ 砂冥宮

砂冥宮の舞台は、神奈川県の三浦半島と石川県の内灘です。

いつものように、雑誌「旅と歴史」の来月号の特集は「三浦半島」と決まり、編集方針として「民間伝承を中心にしたものにする」が示されたので、泉鏡花の「草冥宮」のヒントになった秋谷の須賀家のことや、三浦半島の地誌を予習して出かけた。

 

須賀智文にあって、取材をし、記事ができたので報告とチェックを頼もうと電話をした時に須賀の事件を知ることになったのである。

その事件というのは、小松市安宅の関近くで殺人事件があり、被害者は須賀智文・

77歳とのことで、ビックリして、須賀家に行き、色々聞くが、家族が知っていたのは、金沢にある泉鏡花の生家を訪ねて、それから泉鏡花ゆかりの温泉、辰口温泉に泊まりたいと言ったいたとのこと。人に逆らうのが面倒で、たいていのことは「はいはい」と聞いてくれた。そのような人間が殺されなければならないという、理不尽さに,浅見はおかしいと事件の解決をして行くのである。

 

警察の調査もなかなか結果ででないような状況下で、浅見は偶然、内灘に須賀が行ったことを突き止めたが、なぜ、内灘なのかがわからないのである。

 

内灘町役場に行き、内灘の歴史は、河北潟の利用と、それに、押し寄せる砂との戦いの歴史だった。案内の女性は,横浜のひとで、内灘の歴史に惚れ込んで永住してしまったとのこと。お母さんの青春をかけた、思いのこもった土地だそうです。

 

内灘闘争(砂丘で起きた日本初の基地反対闘争」

  内灘闘争とは、1952年石川県河北郡鬱灘村(現在の内灘町)で起きたアメリカ軍の試射場に対する反対運動である。

 

内灘町で案内してもらった女性の紹介で、彼女の母を訪ねて行き、内灘闘争に参加して、いろいろな思惑の中で、頑張ったけど、最後は敗れたことや、須賀のことも、思い出してくれた。彼女曰く、運動に参加して、何よりも辛かったのは地元の若い人から「あんたらは、帰るところがあるからいい」って罵声を浴びたことでした。

若いから、リーダーのアジ(煽動)で奮起させられたが、結局は敗北に終わって、家に帰り、大学に復学したとのことでした。

 

須賀智文が三浦半島にゴルフ場が出来ることに激怒していたのを、浅見は、初めて取材に行ったときに聞いていたので、そのゴルフ場の開発に関する資金の流れ等を調べて、自分が学生時代に内灘闘争に参加したときのリーダーが不正融資の張本人だと突き止めて、本位を促したところ、殺されたのである。その後。同じ内灘闘争の仲間も、須賀智文の殺人事件を知り、リーダーを追い詰めて殺されたのである。

 

浅見は、内灘で激しい基地反対闘争があった時、須賀さんや、大脇さんを煽って、逃走の先頭に立ったリーダーが、反省もなく,のうのうと不正を働くのが許せなかったのである。

 

私が、大学に入学したのが1967年で、1年の時は、学生運動は盛んではなかったが、1968年の1月19日のエンタープライズ佐世保入港阻止に対して、全国から多くの学生が佐世保に集結したのをテレビで見た記憶があります。そのときに九大に学生が集結しているとかで、機動隊が九大に入ったというのもテレビで見ました。

1969年1/18・1/19に東京大学安田講堂全共闘の学生を排除することを目的に機動隊が大学構内に入ったのもテレビで見ました。

1970年の安保闘争が,盛んになる時期で、私の大学でも、学生のリーダーが演説をしていました。ああいうリーダーの方は演説が上手ですよね。なるほどと納得することもありましたが、体制がどうとか、こうとかといっても、体制なんてそんなに変るものではないと思っていましたので、ノンポリ学生でした。

女子学生の一人が、学生運動にのめり込んで、親御さんが送ってきた授業料を払わないで、退学をしました。ミッション系の高校を卒業した人で、とても感じが良くて、仲よしだったので、残念です。彼女は今、どうしているのかと思います。

この砂冥宮を読んで、若い頃を思い出しましたが、学生運動をしていても、4年性になると、さっさと運動を辞めて、公務員になったり、商社に入ったりした人を見て、頭のいい人は簡単に変ることができるんだと思いました。

 

森繁久弥の「知床旅情」がよく流れていました。

  知床の岬に ハマナスの咲く頃 思い出しておくれ 俺たちのことを

  飲んで騒いで おかにのぼれば 遙か国後(くなしり)に 白夜は明ける

 

 とても、懐かしい歌です