浅見光彦シリーズ 斎王の葬列
斎王とは、天皇に変わって、伊勢神宮の天照大神に仕えるために選ばれた未婚の皇女のことである。
斎王制度は、天武2年(674年)壬申の乱に勝利した天武天皇が、勝利を祈願した天照大神に感謝し、大来皇女(おおくにのひめみこ)を神に仕える御杖代(みつえしろ)として、伊勢に遣したことに始まる。
壬申の乱・・・ 天武天皇元年6月「24日から7月23日に、起こった古代日本最大の内
乱である。
天智天皇の太子・大友皇子に対し、皇弟・大海人皇子が兵を挙げて
勃発した。
反乱者である大海人皇子が勝利するという、日本では例を見ない内
乱であった。
伯父と甥の戦いで、皇位争いである。
斎王制度は、660年以上にわたって続き、60人以上の斎王が存在した。
伝説では、伊勢に天照大神を祀った倭姫(やまとひめのみこと)など、多くの斎王の
物語がある。
制度が確立して以降の斎王は、ト定(ぼくじょう)という占いで選ばれ、斎王郡行と呼ばれる五泊六日の旅を経て伊勢へと赴いた。
郡行路 都 → 近江国府 → 甲賀 → 垂水 → 鈴鹿 → 壱志 → 斎宮
その任が解かれるのは、主に天皇が代わったときのみである。
斎宮とは、古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所である。
斎王の解任は(退下)は、天皇の譲位、死去、近親者の喪などによるとされ、帰路は
天皇の譲位のときは、郡行路をたどり、その他のときは、同じ路をたどることは出来ないとされたという。
斎王一覧表によると、初代斎王は豊鍬入姫命、第二代は、垂仁天皇の皇女倭姫命で、
第十代が天武天皇のときの大来皇女で、はっきりした記録に残っている最初の斎王である。
わずか14歳で都を離れ、遙か伊勢に送られた皇女は、青春の日々をすべて神に捧げ尽くしたあげく、逆賊の姉として、解任され、大和に帰ったのである。
大来皇女の弟、大津皇子は天武天皇の皇子で、人気のある聡明な皇子だったので、天武天皇の死後、皇位を巡る争いに巻き込まれたのである。
天武天皇の皇后(後の持統天皇)が自分の息子に皇位を継がせたいと、陰謀を巡らせて
大津皇子を失脚させて、死刑にしたのである。
肉親同士の争いは、昔も今も醜いものである。
天武天皇も兄の息子である大友皇子との戦で、勝利し、天皇になったのであるから、因果は巡ると思われても仕方がないのではないか。
万葉集にある「うつそみの人にある我や明日よりは二上山を色背と我れ見む」の歌は、姉である大来皇女が、亡くなった弟を思った歌である。肉親の情は,いつの世でも胸を打つと思いました。
この小説では、水口町の女性が大学を卒業して、隣町の土山町の文化財調査委員会の学芸員として勤めることになり、頓宮を調査研究をすることになるが、頓宮とは何かといえば、斎王の郡行が泊まったお宿と聞いて納得するが、土山町に垂水頓宮があるとは知らなかった。という始まりで、浅見光彦の友人が、劇団を主催しており、土山町で、
斎王の葬列のロケをしていたが、殺人事件に遭遇し、重要参考人として、警察から調べられるようになり、浅見に助けてくれとSOSをして、浅見が登場することになる。
浅見は、取材の目玉は、明和町にある斎宮歴史博物館、斎宮の郡行ルート、五つの頓宮跡である。
旅と歴史の仕事をしながら、友人の無実を証明するのである。
いつもながら、歴史を見据えた小説に感嘆する私です。
本を読みながら、地図を片手に浅見と一緒に旅をしている気分になります。