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日本の食の歴史 平安時代

平安時代は794年から約400年続き、894年に遣唐使が廃止され、中国文化の新しい伝来がなくなり、日本独自の文化が熟成された。律令制が崩壊して貴族の広大な私領からの富の上に築かれた華麗にして優美な平安文化であった。

平安時代になると、食事形式は一段と洗練されたものとなり、年中行事の儀式が執り行なわれるようになり、それらの饗宴には酒が不可欠で、酒造りの技術もこの頃進歩しました。また、平安時代には日本古来の生活習慣に中国の風習を加えて年中行事が定まった。新嘗祭大嘗祭などの農業儀礼のほかに、新年の年賀にはじまり、三月、五月、七月、九月の節句や節分、名月、年末の大祓などの行事が行なわれ、それぞれに独特の食べ物がつくられ宮中で饗宴が行なわれた。

大饗料理奈良時代に中国から伝わり、貴族の饗応料理として発展したもの。食卓上に調味料が並べられ、調味しながら食べたという)と呼ばれる当時の食事では、大きな膳に前後で向かい合って座り、手前に自分用の調味料や飯、向かいとの間に共有のおかずが並んでいた。料理は調味されるというよりも、醤、酢、酒、塩が添えられていて、それらを自分で調合し、味わうものであった。このように食卓上で調味することは鎌倉時代から室町時代まで続いた。平安時代までは箸とともにさじも添えられており、また、銀器、銅器、ガラス器など、食器も多彩になった。日本の飯は粘りがあることもあり、また椀を手で持つことから、さじは次第に用いられなくなった。

この頃常食された飯は、米を蒸した強飯であり、保存食として作られた糒は、兵糧として発達した。今日の飯は姫飯いわれるものである。

平安時代には米が食生活の中心に定着し、うるち米を釜で煮た固粥が姫飯と呼ばれて日常の主食となり、もち米を蒸した強飯は斎日に供されるだけになった。また、主食と副食という食事スタイルが定着し、多種類の食材が都に集まって貴族の食膳は賑やかになった。地方の食品は貢納品として政府や貴族に納められるほか、都の東西の市で一般にも売買された。地方に名産品ができ、丹波の栗、丹後の若布、信濃の梨、越後の鮭などがよく知られた。

農民は世が律令制から荘園制に変っても、年貢を納め続けることに変わりなく、わずかな米のほか、雑穀や野菜、山菜で暮らしたが、貴族ほど肉食忌避の意識はなく、魚介のほか野生の鳥獣の肉も食べ、貴族たちよりも栄養的には良好な一面もあった。野生の獣は弓矢や罠を仕掛けて捕らえ、干し肉にして貯蔵し、また交易に用いた。

一方、平安時代初期に最澄空海にまた平安後期に栄西によってもたらされた茶が普及するのは、中世になってからである。