72歳でブログはじめました!!

72歳のおばあちゃん!ブログ挑戦中!!

令和は万葉集から 2

万葉年表

 第1期 629~671  舒明天皇即位~壬申の直前

 第2期 672~709  壬申の乱平城京遷都直前

 第3期 710~733  平城京遷都~山上憶良没年

 第4期 734~760  「万葉集」完成期

 

万葉びとの装い

 万葉集の歌には、冠・袖・領巾・裳などの装いに関わる語句が出てきます。

  貴族たちは朝廷に出仕する際、着用する衣の様相がこと細かく定められています。

 冠も同様で、五位以上と五位以下では冠の素材が異なります。

 衣装を作る役目は女性に限られていましたので、一針一針に愛情を持って裁縫してい

 た。

 

万葉びとと「時刻」

 水時計「漏刻」は、四段の水槽に管を使って水を流し、最下段の水槽に浮かべてある

 矢を浮き上がらせ、その矢の目盛で時刻をはかった。

 奈良時代は1日を12等分したうえで、子、丑、寅というように、12支を当てはめてい

 た。

 これを12辰刻という。2時間で1辰となり、たとえば午後11時から午前1時までが

 「子」の時刻にあたる。

 

「飛鳥」と「明日香」

 飛鳥は日本初の政権である大和政権が生まれた政治の中心地です。

 また中国や朝鮮半島との交流があり、最先端の技術や文化が伝えられていたため、文

 化の中心地でもあった。「飛ぶ鳥の・あすか(明日香)」とうたわれていて、明日香

 という土地に対する褒め言葉といえるので飛鳥とかいて「あすか」と詠むようになっ

 た。

 万葉の「飛鳥」は、南北が1キロ、東西は0.6キロというごく限られた範囲に天皇

 天皇に従う豪族たちが暮らすメトロポリスだった。

 さまざまな国や地域の人々が行き交い、対陸風の迎賓館や、日本初の壮大な伽藍も広

 がっていた。

 

白村江の戦いと近江への遷都

 斉明天皇6年(660)、朝鮮半島の一国である百済新羅と唐の連合軍によって滅ぼさ

 れます。百済はかねてより日本と親交があった国です。

 百済の復興を願う遺臣たちから援軍を求められ、斉明天皇中大兄皇子はこれに応じ

 ました。

 日本軍は朝鮮半島の南西部を流れる白村江の河口で、唐の水軍と戦いましたが、最新

 式の船を持つ唐の軍勢との力の差は歴然で、日本軍は大敗します。

 この戦いのあと、百済に味方した日本は、唐、新羅からいつ攻め込まれるかわからな

 いという状況に陥ります。

 そのためさまざまな防衛対策を講じました。

 筑前国太宰府では、全長1.2キロにも渡る水城という堤防や大野城という朝鮮式の山

 城が築かれました。また、朝鮮半島に近い対馬壱岐、筑紫には防人と呼ばれる兵士

 やのろし台が設置されました。防人はおもに東国から集められ、遠く九州の守備に

 当たった人々です。「万葉集」にも多くの防人の歌が収められています。

 天智天皇6年(667)中大兄皇子大和国(原奈良県)の飛鳥に置かれていた都を

 近江国(原滋賀県)に遷しました。近江は日本海からも瀬戸内海からも遠く、新羅

 唐からの水軍に備えられると考えたのでしょう。