72歳でブログはじめました!!

72歳のおばあちゃん!ブログ挑戦中!!

日本の食の歴史 近世(江戸時代)2

普茶料理

別名黄檗料理。京都の宇治にある黄檗宗万福寺に伝わる中国式の精進料理である。

同じく中国伝来の長崎に起こった卓袱料理(材料に獣鳥魚肉類を使う)に対して、卓袱料理の精進料理、または寺卓袱と称する事もある。饗膳料理の一種。元来は中国の同名の寺に伝わる料理で、1654年(承応3)、黄檗宗布教のため明から渡来した隠元によって伝えられた。座禅の行や法要などの行事(接心)が終了した際、全山の僧が一同に会し、作法に従って茶を喫しながら協議や談合をする茶礼の後の食事が普茶料理である。普茶とは、「普及茶一請」という言葉に由来し、広く一般大衆に茶を供するという意味がある。現在、京都の万福寺に伝わる食礼様式は、長方形の食卓に4人が2人ずつ向かい合って座り、一つの器に盛られた料理を互いに取り回して食べる。各自の食器は、茶碗

取り皿、箸、湯さじである。

料理の特色は油とクズを用いることで、献立は二汁六菜を基本としている。澄子、まふ、雲片、和合物、しゅんかん、ゆじ、素汁、えん菜、飯子からなる。

最後に生盛が出されて饗膳が終了する。現在の普茶料理は、日本に伝来したころのものより油の使い方が少なくなり、味付けも淡泊なものとなって、日本人好みの味に変化しつつある。

 

武士の食事

将軍の日常の食事は時代により、また個人差はあるが、必ずしも贅沢ではなかった。

第11代将軍家斉の場合、朝食と昼食が一汁四菜で、夕食は汁なしで五菜であった。献立には大奥の中年寄の意見が加味されることがあった。将軍の食事にはタブーがあり、魚介ではコノシロ、サンマ、イワシなど、干物類、獣肉、野菜ではニラ、ラッキョウなど、それに天ぷら、納豆などは食膳に上がることはなかった。

 

大名の日常食は領国の経済力に左右されたが概ね質素であった。特に江戸時代も中期になると貨幣経済が世を覆い年貢米を主たる収入とする藩の経営は苦しく、藩主も節約を心がけた。多くの藩では藩主の食事は台所奉行が主として作り、毒味を経て供されたが藩主は好き嫌いをいわず、毎回ほぼ同じ量を食べ、膳に何か不具合があっても文句をいわぬ不文律であった。主君の食が進まぬ時は台所奉行の責任になった。

 

下級武士の生活も厳しかった。屋敷持ちの中級武士は自邸内に畑を作って野菜を栽培し、下級武士は内職によって才勝の足しにした。「武士は食わねど高楊枝」の誇りも失せ、「武士は買い食いをせぬ」ものとの倫理もなくなって、若い武士たちは町人に混じって巷の屋台や居酒屋などを愛用した。独身の勤番侍は故郷の食べ物と比較しながら江戸の食文化に触れ、故郷に持ち帰った。