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日本の食の歴史 近世(江戸時代)1

江戸時代は日本料理の完成した時代である。17世紀半ばに完成した鎖国という特殊な状況の下、日本独自の料理様式を整えていいった時代といえる。また、参勤交代により地方の食材や調理法が江戸に持ち込まれると、それまでの上方中心の食文化に加えて、麺状のそばであるそば切りなど江戸独自の料理も誕生するようになった。交通手段の進歩により物資の流通が盛んになり、、貨幣経済が発達していくと、町人の生活はしだいにぜいたくになっていく。このようななか、初物(その季節に初めてとれた穀物、野菜、果実、魚介類などのことで、走りともいう。「初物七十五日」といい、初物を食べると75日生き延びるとして珍重された。)を楽しむ風習が生まれた。

一方、農民は厳しい年貢(農民に課された租税で、毎年領主に納める。米を中心に、絹、布、塩などを納めるが、しだいに金銭で納めるようになる。)の取り立てのため、雑穀中心の質素な生活を余儀なくされた。

江戸時代後半には、伊勢参りなど庶民の旅行も許されるようになり、旅の手引き書などで地方の名産や銘菓が知れ渡った。

18世紀後半には、専門の料理人による本格的な料理屋が江戸に出現し、各地に広まっていく。これにより、会席料理の基礎が築かれ、料理屋文化が展開されていく。

豪商による高級な料理屋は繁盛し、大食・大飲を競い合う者や食通を気取る者も出てきた。庶民の間でも外食が盛んになり、、一膳飯屋(街道の茶屋から発展し、質素な食事を提供する簡易食堂のようなもの。宿場外れの茶屋や下層階級向けの都市の飲食店を指す)などの現在のファーストフード店に近いものが生まれていった。例えば、19世紀初頭には、にぎりずしが登場し、その手軽さから江戸っ子の人気を集めた。

鎖国体制下でも外国と交流のあった長崎では、主に中国料理の影響を受けた卓袱料理が生まれ、大皿に盛った円卓料理が流行した。

また、中国の禅僧により普茶料理が伝えられ、大皿に盛って、銘々に取り分ける会食式の精進料理として広まっていった。

 

卓袱料理

江戸初期に日本最初の開港の町、長崎で起こった膳組み。円卓を囲みいっしょ盛りにした料理をめいめいが取り分けて食べる中国式の食事様式を取り入れたもの。

食器は1人2枚あての取り皿と箸、とんすいと呼ばれる陶器のさじで、取り箸は使わず各自の箸で取り分ける。円卓には、宴の始まる前から、さしみ、酢の物、口取りなどを盛った小菜が配される。小菜は小器の意だが、卓を囲んだ人数分の料理を盛るので実際には小さな皿ではない。客が着座するとおひれと呼ばれるすまし汁が出され、宴が始まる。あいさつや酒はその後になる。続いてみそ汁、魚菜類の煮物の大鉢、豚の角煮を入れた中鉢、汁の多い沢煮椀などが出される。最後に梅椀と呼ばれるしるこなどの甘味が出されて宴が終わる。