72歳でブログはじめました!!

72歳のおばあちゃん!ブログ挑戦中!!

 日本の古代 奴国

邪馬台国との間に戦端が開かれたさい、邪馬台国はこの金印を奪おうとし、また、奴国は、それを保とうとしたであろう。天が奴国に組せず、邪馬台国の軍兵が、ついに奴国に侵入するに及んで、この宝印が隠微されるに至ったことでしょう。金印隠微のところとして、志賀島が選ばれたのは、敵軍が、筑後方面から侵入してきたことから考えられるのである。宝物を埋蔵するにあたっては、味方であっても、多数の人の目撃を回避するのが自然である。隠匿者は少数であったはずである。極端に考えれば、ただひとりであったかもしれない。金印は、奴国の宝印である。金印が志賀島から発見されたことからみれば、志賀島は、あるいは、奴国王の終焉の地であるかもしれない。隠匿後、金印は奴国の人にとっても、所在不明であったと思われる。

 

金印の一辺は、正確に後漢の一寸

金印の測定値は、一辺が、平均2.3㎝の正方形(後漢の尺の一寸四方)である。厚さ(台高)は、約0.9㎝(後漢尺の四分か)。全体の高さは、約2.24センチメートル、重量は、約109㌘である。上部に、蛇ちゅう(蛇の形をしたつまみ)で、「漢委奴国王」の五文字が、三行に刻されている。金印の五文字は、「漢の委の奴の国の王」と読むべきで、「後漢書」の「倭奴国」も「倭の奴国」と読むべきであり、その他は、「日本書記」などに、那津などと記された地、すなわち、いまの博多(福岡市)のあたりであろう。

 

奴国の都は、那珂川町の付近であろう

「奴国」の中心地、都は那珂川町の安徳台ではないか?

その理由として

① 「奴国」を福岡県春日市の須玖岡本あたりにあて、「不弥国」を、飯塚市立岩あたりにあてると、距離を実測して、「巍志倭人伝」の記載と比較してみるとき、「伊都国から奴国」「奴国から不弥国」までの一里の長さが、他の諸国間の距離に比べてながくなりすぎる。「奴国」として、那珂川町をあて、「不弥国」として、糟屋郡宇美町をあてたほうが、距離は自然となる。また、方向も、伊都国から見て、「奴国」が「東南」になり、「巍志」の記述によく合っている。

② 那珂川町は、福岡県筑紫郡に属する。しかし、この地は昔は「万葉集」「延喜式

「和名抄」に記されている「那珂郡」に属していた。那珂郡は、那珂川のそい、「日本書紀」にみえる「なの県」の中心地である。「那津」は、のちの博多湾である。

③ 那珂川町の安徳台は、台地で国の都ともいえるような大きな集落は、川の河口付近よりもやや上流にいとなまれることが多いので、その条件を、十分満たしているといえる。

 

結果として、奴国は邪馬台国に滅ぼされたのであるが、金印が残っていることにより、奴国の存在が、今も大きく,なにかを私たちに問いかけているのではないでしょうか。