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日本の古代 奴国

邪馬台国はどこ?で、巍志倭人伝を読みましたが、色々な学説があり、邪馬台国がどこかはまだ確定していません。邪馬台国卑弥呼が「魏」に遣使(239年)をして「魏」から、金印をもらっていますが、この金印は、いまだ発見されていません。

卑弥呼の前に、西暦57年、後漢光武帝により、倭の奴国王に、金印が与えられました。後漢の権威を背景に、100年以上「奴国」は近隣に猛威を振るっていました。

しかし、「奴国」は、後漢の衰退とともに猛威を失っていきました。

日本の古代史は、中国との関係を抜きにしては、分からなくなります。

 

西暦        1000          紀元     200~600           

日本 旧石器時代  縄文時代  弥生時代         古墳時代

 

 

中国 旧石器時代   殷    秦   漢       三国時代(魏・晋・呉)

 

 

ヨーロッパ エーゲ文明  ギリシャ都市国家   ローマ帝国(前27年)

                              ローマ帝国分裂

                                 〔395年) 

 

歴史の流れをみると、大まかに上記のようになります。

 

「漢委奴国王」の金印は、1784年(天明4年)の2月23日に,福岡市の志賀島で発見されました。現在は、福岡市博物館に保存展示されており、国宝に指定されています。

 

2世紀の後半、中国では黄巾の賊が兵をあげ、そのころ、我が国でも、大乱が起こり、博多湾沿岸国家「奴国」は、筑後川上流域の山地に勃興した「邪馬台国」によってうち滅ばされる。「巍志倭人伝」の記す「倭国の大乱」の実態は「奴国」と「邪馬台国」との争いとみられる。西暦180年前後に攻め滅ばされるたと思われます。

西暦239年、邪馬台国の女王卑弥呼は、魏王朝から金印を与えられ、名実ともに、倭国の盟主的存在になります。

「奴国」から「邪馬台国」へ。この間に、背景となる中国の勢力が、後漢から魏へ移り変わっていきました。 

 

後漢の時、倭の奴国が、まず漢に通じたことが、奴国をして、政治上の重要な地位を得させた。奴国は、一時大勢力を占めるに至ったが、それは後漢の後援があったからである。他国が、漢をおそれはばかったことは、ほとんど疑いのないことである。奴国を中心とする勢力は、永く続かなかったようで、後漢の威信が失墜するとともに、次第に勢力を失うに至ったのである。倭国大乱の一方が、邪馬台国であることは、明らかですがその敵は不明です。しかし、この大乱は邪馬台国対奴国の戦乱であったかもしれないのです。

一説によると、邪馬台国は、今の筑後の山門群ではないか?そして敵国である奴国は、今の筑紫郡の一部ではないかと推察される。筑前筑後地方は、当時流血の戦場で鼻勝ったかと思われます。邪馬台国が、終局の勝利者であったことは、疑いないことである。