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託された「命のバトン」 1

故人に追善の祈りを捧げる時機 人生を考えるきっかけに

お盆を迎える7月、8月は、多くの人が故人を思い、追善の祈りを捧げる時機です。

「”生まれた者は必ず死ぬ”という道理を、王から民まで、だれ一人知らない者はいない。しかし実際に、このことを重大事と受け止め、このことを嘆く人間は千万人に一人もいない」とのことは「死を忘れた文明」と言われる現代において、ますます重みを増していると思います。

新型コロナウイルス感染症の拡大によって、誰もがいや応なく「死」を身近な問題として直視せざるを得なくなりました。ワクチン接種が始まり、先の見えなかったパンデミック(世界的流行)の収束に光が差してきたのは喜ばしいことですが、それで今回の経験を忘れてしまっては、元も子もありません。そもそも、死は誰人も逃れないものであり、いつか全員が向き合わなければならない人生の根本問題です。だからこそ、故人の冥福を祈るこの時機をきっかけとして、一人一人が「死」とどう向き合い、どのような人生を歩むべきかを考えていただきたいと思います。多くの人が、死を忌むべきものとして扱い、考えないようにしているという現実があります。

いざ死と向き合わなければならなくなった時に、死を直視できない方、あるいは、うろたえたり、人任せにしてしまったりする方など、さまざまな最期をを見ました。中には、臨終の場で、”祖父母の死の姿を見せると子どものトラウマになってしまうから”と、両親が子ども達を立ち会わせない判断をした場面もあります。昔は、自宅で看取ることが当たり前でした。旅立つ人にとっては、次第に体の自由がきかなくなり、食べ物が喉を通らなくなり、体もやせ細っていきます。その中で、共に暮らしてきた家族に、自らが生きてきた証しを残すように言葉を掛け、最期は自宅で死を迎えます。一方、残される家族にとっては、日々衰えゆく姿と向き合いながら、徐々に気持ちを整理していきます。そして最期は手を握り、声を掛け、やがて別れの時を迎えるのです。

その過程は、とてもつらいものですが、死と向き合うための大切なプロセスです。ところが現代は、死の多くが病院内における出来事となり、人々が死を身近なものとして捉えることが少なくなってしまいました。現代は、そうしたことを踏まえ、在宅医療が進んでいるものの、自宅で亡くなる方は、まだ13.6%にすぎません。加えて、コロナ禍が、死の実感を失わせている現実もあります。病院や介護施設では、感染対策のため、家族が思うように面会や付き添いがかなわずに亡くなる場面も少なくないからです。

別れの時を共に過ごせないことは、旅立つ側と残された側の両方に大きな悲しみと喪失感をもたらします。面会の方針も施設によって異なるので、最期が近づいた時は「立ち会いは、どこまでできるのか」「どうしても合わせておきたい人がいる場合は、どうしたらよいか」など、積極的に相談やお願いをすることが必要だと思います。