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万人の幸福のための経済 3

デュフロ氏は、教育や保健医療サービスを確保するためには、社会が積極的にに奨励・介入すべきであるとしています。さらに、支援の仕組みを作って良しとするのではなく、支援をする人・される人がモチベーションを高めていける手段を見いだすことも、大事であると言います。人が何を考え、どう行動するか。効率性のみを求めるのであれば、そこに感情やモチベーションが入る隙間はありません。しかし今、際限なく利益を追求する新自由主義が行き詰まる中で、経済開発の在り方は、「人間」に視点を置いたものへと変貌しつつあります。

最近の労働経済学は、労働力を「財」と同じでは泣く「人間」とみることで、革新的な知見を得ています。つまり、”需要と供給で賃金が決まる”という単純な考えではなくなってきているのです。

以前、アメリカの小売り大手の2社を比較分析した論考が話題になりました。一方は、長時間労働、コスト重視の低賃金労働。もう一方は短時間労働、高賃金型。企業の業績に関して、教科書的には前者に軍配が上がりそうですが、結果は後者でした。

後者の従業員は、”会社のために何ができるか”を常に考えて行動していたといいます。そこで発揮された生産性の高さが、賃金コストをはるかにカバーしたと報告されていたのです。利益ばかりを求めるのではなく、従業員の充実と満足を高めることが、長期的には企業の発展につながる。社会全体に置き換えても、示唆するものが多い話であると感じます。

 

置き去りにしない

もとより経済学は、「幸福」「厚生」を追求する学問でもあります。

かって、哲学者のベンサムとミルは、「最大多数の最大幸福」という考え方に基づく功利主義を唱えました。しかし、この言葉は誤解を生みやすく、実際に、”少数者を切り捨てている”という批判が数多くなされてきました。ですが、彼らは少数者を置き去りにして最大幸福を目指すとまでは言っていないと考えます。むしろ、人間の唯一の目的とは幸福であり、個々人が幸福を追求する自由を得ることで、幸福の総和を最大化すべきであるというのが、彼らの主張の確信だと捉えています。一方で、ベンサムとミルが個人と個人の幸福はぶつかり合う可能性があることを見落としていたという批評は、的を射ています。自身の幸福を追求する自由は、他人の幸福を侵害しない限りにおいて認められますが、現実には、個人同士が対立し、足を引っ張り合うことは多々ある。そこでは、「個人の幸福」の総和は、そのまま「社会全体の幸福」とはならないということです。