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邪馬台国はどこ? 2

倭では、男子は成人も子供もみな顔や体に入墨をしている。昔から倭の使いが中国に来るとき、みな大夫と称する。夏王朝の六代の王少康の子が、会稽群に封じられたとき、断髪して入墨し、海中にひそむみずちの害を避けたという。今、倭の水人は海中に潜って魚や蛤を捕らえ、体に入墨をして大魚や水鳥から身を守ってきたが、後にはやや飾りとなった。倭の諸国の体の入墨は、国々によって左右や大小などに違いがあり、身分の尊卑によっても異なる。帯方群からの道里を計算すると、倭は会稽群や東治縣の東にあることになろう。

倭の風俗は折り目正しくきちんとしており、男子はみな冠をかぶらず、木綿の布で頭をまき、衣は幅広い布をただ結び束ねるだけで、縫うことはない。婦人はお下げや髷を結ったりして、衣は単衣のようにし、真中に穴をあけて頭を通して着るだけである。

人々は稲・苧麻(からむし)をうえ、桑・蚕を育て紡績し、上質の布・かとり絹・真綿などを産出する。その地に、牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない。

兵器には、矛・楯・木弓を用い、木弓は下を短く、上を長くし、竹の矢には、鉄鏃や骨鏃を用いる。要するに、これらの産物や風俗をみると、たん耳、朱崖と同じである。

倭の地は暖かく、冬も夏も生野菜を食べる。人々ははだしで生活し、家屋をたてるが、父母兄弟はそれぞれに居所を異にしている。朱・丹を体に塗るのは、中国で白粉を用いるようなものだ。飲食には高杯を用い、手づかみで食べる。死ぬと棺に納めるが、土を盛り上げてちょうをつくる。死んだとき、さしあたって十余日は喪に服し、その間は肉を食べず、喪主は声をあげて泣き、他人はその周りで歌舞・飲酒する。埋葬すると、一家あげて、水中でみそぎし、中国で一周忌に練絹を着て沐浴するのとおなじようにする。

倭人が海を渡って中国に来るには、つねに一人は頭をくしけらず、しらみも取らせず、衣服は汚れたままとし、肉を食べず、婦人を近づけず、あたかも喪に服している人のようにさせて、これを持衰と名づける。もし、航海が無事にゆけば、かれには生口・財物を与え、もし船内に病人が出たり、暴風雨に合ったりすれば、これを殺そうとする。つまり持衰が禁忌を怠ったからだというのである。

倭の地には、真珠・青玉を産する。山には丹が出る。樹木としては、たん(くす)・じょ(とち)・くすのき・ぼけ・くぬぎ・すぎ・かし・鳥号(やまぐわ)・かえで・があり、竹にはささ・やたけ・かづらだけがあり、またしょうが・たちばな・さんしょう・みょうがもあるが、滋味ある食物として利用することをしらない。またおおざる・きじもいる。

その通俗の行事や旅行にさいして、何かをしようとすれば、骨を灼いて吉凶を占い、まず占うところを告げ、その解釈は中国の亀卜の法のように、火で焼けたひびわれをみて兆しを占うのである。